史跡(神社、仏閣、遺跡、墓所)

会沢正志斎の墓

(水戸市指定文化財・本法寺)
【場所】千波町

 会沢正志斎(1782〜1863)は、名は安、字は伯民、通称は恒蔵といい、先祖が駿河から*移住して、代々久慈郡諸沢村(大子町諸富野(もろとの))に住んでいました。父親はごく低い身分の官吏でした。十歳のときに水戸に出て藤田幽谷(ふじたゆうこく)に入門しますが、時に幽谷18歳。若き師弟の誕生です。その生涯は波乱多い一生でしが、安政2年(74歳)には、特に全国諸藩から選ばれた5人の儒者の1人として召されて将軍に謁見(えっけん)をゆるされるなど、その学名は天下に聞こえました。
 晩年(嘉永3年)その師幽谷の教えを『及門遺範(きゅうもんいはん)』として1冊にまとめています。この書は『新論(しんろん)』と違ってあまり知る人は少ないのですが、69歳の自他共に認める碩学(せきがく)が、その少年の日々に師から受けた教えの数々を、鮮明に詳細に記録したことは、幽谷の教育力、会沢の記憶力、共に驚かされるとともに、師を慕い師道を重んじる水戸の学風を如実に示すものでもあります。
 彼は若いときは多病虚弱であったといいますが、よく長寿を保ち、文久3年82歳で没するまで、終生幽谷の教えを遵奉(じゅんぽう)し、幽谷の弟子中の第一人者として、藤田東湖や豊田天功(とよたてんこう)と共にいわゆる後期水戸学を代表する学者として重きをなしました。
 その主著といわれる『新論』を脱稿したのは文政8年ですが、これを読んだ幽谷は、一章を読み終わるごとに嘆賞して、「自分にはもはや著述のために残された時間は無いが、伯民がこのような優れたものを残してくれたのでもはや思い残すことは無い」と絶賛したほどでした。この翌年の冬に幽谷は亡くなります。 『新論』は、直ぐには出版されなかったのですが、ひそかに写し伝えられ、多大な影響を与えました。各地から水戸に遊学する人は多く会沢先生の教えを受けています。門人の礼をとった者の中には久留米の真木(まき)和泉守保臣(やすおみ)、村上守太郎や長州の赤川淡水(おうみ)(佐久間佐兵衛)、笠間の加藤桜老(おうろう)、などがあり、更には、入門はしないまでも直接教えを乞い、著しい影響を受けたものに、photo長州の吉田松陰、薩摩の肝付(きもつき)毅卿、日下部伊三次(くさかべいそじ)、高崎の清水赤城(せきじょう)、熊本の長岡監物(ながおかけんもつ)など、それぞれ幕末の有志・志士として歴史に名を残した人が沢山おります。水戸まで来ないでも『新論』を読んで発奮した人は少なくないでしょう。
 その他にも、わが国の歴史の本質や風俗の美点などを平易に叙述して水戸の学風を広め、また、あるべき政治・国防の具体策を述べるなど、多くの著述によって世を益しました。『廸彝編(てきいへん)』『草偃和言(そうえんわげん)』『退食閑話』『下學邇言(かがくじげん)』などは前者であり、後者には『豈好辨(あにべんをこのまんや)』『新論』『江湖負喧(こうこふけん)』『時務策』などがあります。明治24年正四位を追贈されました。