史跡(神社、仏閣、遺跡、墓所)

武田耕雲斉の墓

(水戸市指定文化財・妙雲寺)
【場所】見川町

 武田耕雲斉(1804〜1865)は、名は正生(まさなり)、字は伯道(はくどう)、通称は彦太郎、彦九郎、のち修理。如雲と号し、致仕(隠居)して耕雲斉と称しました。斉脩公(なりのぶこう)(哀公(あいこう))の死後、公の弟紀教(のりたかたか) (後の斉昭公)を九代目の水戸藩主として擁立する運動に協力、斉昭就封(しゅうほう)後は藤田東湖などと共にいわゆる改革派として活躍しました。そのため、藩の重職に列しながらしばしば免職・謹慎の処分を受けるなど、斉昭公と浮沈を同じくしました。
 藤田小四郎等が筑波山に挙兵したときは執政職に在りましたが、罷免・謹慎処分を受け、次いで、水戸藩の内輪もめを収めようと水戸に向かった宍戸藩主松平頼徳に随行して藩政混乱の打開を目指しますが果たせず、那珂湊に戦い、遂に藤田等の筑波勢と合流、いわゆる天狗党西上軍の首領に推されます。大子から進軍した一行は、各地で幕府軍と戦いながら冬の木曽路を越えて苦難の行軍を続けましたが、頼みとする徳川慶喜が追討軍を発したのを見て遂に降伏、反幕府の罪人として同士と共に敦賀で斬罪に処され、首級(しゅきゅう)は水戸に梟(さら)されました。
 最後は悲劇に終わりましたが、その志は死なず、島崎藤村の『夜明け前』に、馬籠(うまごめ)の宿を通る一行のことが出てくるように、通過した地域では今でもその様子を語り伝え、一行を顕彰し遺跡の保存に心を配っています。明治24年正五位を追贈されました。 また、この妙雲寺には、頼房公の命令に背いて光圀公を誕生させphoto幼少時の扶育(ふいく)に当った三木之次(ゆきつぐ)・武佐(むさ)夫妻、光圀公の少年期に守役として誠心誠意尽くした小野言員(ときかず)、老女高尾(現在見川小学校の校庭の老桜樹は高尾の一周忌に光圀公が手ずから植えたと伝えている。)、さらには、史館員であり篆刻(てんこく)に勝れた伴香竹、斉昭公時代に活躍した桑原信毅《のぶたけ》、桜田烈士の一人広木有良《ありよし》など、水戸藩関係者の墓があります。
 
※人名の読み方で不確実なものは、ふりがなを《》でくくりました。
 
 
 
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