藤田小四郎等が筑波山に挙兵したときは執政職に在りましたが、罷免・謹慎処分を受け、次いで、水戸藩の内輪もめを収めようと水戸に向かった宍戸藩主松平頼徳に随行して藩政混乱の打開を目指しますが果たせず、那珂湊に戦い、遂に藤田等の筑波勢と合流、いわゆる天狗党西上軍の首領に推されます。大子から進軍した一行は、各地で幕府軍と戦いながら冬の木曽路を越えて苦難の行軍を続けましたが、頼みとする徳川慶喜が追討軍を発したのを見て遂に降伏、反幕府の罪人として同士と共に敦賀で斬罪に処され、首級(しゅきゅう)は水戸に梟(さら)されました。
最後は悲劇に終わりましたが、その志は死なず、島崎藤村の『夜明け前』に、馬籠(うまごめ)の宿を通る一行のことが出てくるように、通過した地域では今でもその様子を語り伝え、一行を顕彰し遺跡の保存に心を配っています。明治24年正五位を追贈されました。 また、この妙雲寺には、頼房公の命令に背いて光圀公を誕生させ

※人名の読み方で不確実なものは、ふりがなを《》でくくりました。