史跡(神社、仏閣、遺跡、墓所)

河和田城址

【場所】河和田町

 河和田城址は、北に天徳寺、西に河和田小学校、南西に八坂神社、南に報仏寺その他を内包した東西約 510m、南北約600mにおよぶ広大な範囲を占めており、外城(ガイジョウ・トジョウ)・内城などの地名を残しています。標高は30mの平地ですが、豊富な地下水により充分な深度をもつ帯状の窪地が入り組んでおり、それらの地形をたくみに利用して築城されています。現在でも北部に六重、西方に五重の土塁跡が確認され、その間に空堀(からぼり)(かつては水濠(すいごう)であったかもしれない)を残しています。大手口(おおてぐち)は南東方向、現在の報仏寺付近とみられます。
 この城の築城者はハッキリしませんが、その最初は常陸大掾(だいじょう)の家臣鍛治彈正貞国(かじだんしょうさだくに)(河和田入道(かわだにゅうどう))が延元元年(1336)頃に築いたのが初めといわれ、その子の代に、江戸通実《みちざね》(通景《みちかげ》)に取って代わられました。河和田・鯉淵・赤尾関などの地が、難台(なんだい)城の戦いの恩賞として関東管領(かんれい)氏満から江戸氏に与えられたからです。
photoこの江戸氏は、かつて南朝方に属して活躍した那珂氏の子孫です。通実(通景)の子通房《みちふさ》は、応永の末年に水戸城を攻略して移り、河和田城は家臣の春秋氏の居城となりました。
 現在に残る遺構は戦国後期の特徴を持つ平城(ひらじろ)であって、この春秋氏時代のものであり、江戸氏の滅亡と共に廃城となりました。

 
※人名の読み方で不確実なものは、ふりがなを《》でくくりました。