史跡(神社、仏閣、遺跡、墓所)

舜水祠堂跡

【場所】北見町

 かつての田見小路、今の北見町NTT東日本茨城支社の入り口近くに朱舜水(しゅしゅんすい)の像が建っています。ここから西へ200mで気象台前交差点ですが、その交差点の北東側にあたる旧田見小路の西端には、藩政時代、舜水祠堂と呼ばれる堂舎がありました。これは水戸藩三代の藩主綱條(つなえだ)公(粛(しゅく)公)の時代、正徳2年(1712)に駒込の別邸から移されたもので、舜水の神主(しんしゅ)(位牌のようなもの)を祀ってありました。いうまでもなく朱舜水は、明国の学者で光圀公(義公)が水戸に招聘(しょうへい)して師と仰いだ人物で、墓は常陸太田の瑞龍山の水戸家の墓所にあります。祠堂は初め田代一遊が堂守に命ぜられましたが、その死後、弟子の青山一溪(谿)が堂守となり、以後代々青山家がここに住み、堂守となって祀りを継続しました。ここでは定期的に講義が行われ、その講目は江戸に報告されています。やがてこの青山家から延于《のぶゆき》(雲龍(うんりゅう))、その子延光《のぶみつ》(佩弦(はいげん))・延寿《のぶとし》(鉄槍(てつそう))など、水戸文学を代表する人物が輩出します。ちなみに、女性解放運動で名高い山川菊栄は延寿の孫に当ります。
photo  水戸藩士の教育機関施設としては、早く元禄から享保にかけて、大町に、光圀公の命によって設けられた森尚謙の儼塾(げんじゅく)があり、その後を祠堂が享けた形となったのですが、私塾の出現によってその役割を終えたのでしょうか、天保初年にはすでに廃絶していたようです。その敷地には舜水の愛した桜樹が植えられていて、「花時(はなどき)ノ美観(びかん)、清雅ニシテ、水府中ノ勝地(しょうち)タリ」と『新編常陸国誌』は伝えています。
 この祠堂の北側の崖下から台地に上がる道は、水戸台地の南北を貫く幹線として古くから利用されていました。水戸二高の西側を通って梅香に抜ける、かつての大坂町です。





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