自然・公園・文化

桜の牧跡

【場所】見川町

 斉昭公(なりあきこう)(烈公(れっこう))は、領内で馬を産出しないことを遺憾とし、天保四年就藩の折に、光圀公(義公)がかつて経営させ天明八年に廃絶された大能の牧(常陸太田市里美)の再興を考えましたが、有司の賛成を得られず、城下近くの丹下原と大戸原の地を選んで小牧場を作ることにし、費用は手許金から支出して九月に着工、同六年三月に完成しました。当時、馬は武用としても農耕用としても重要な産品でした。
 丹下原は見川、河和田、小吹、萱場四ケ村の入会地、大戸原は大戸、萱場二ケ村の入会地であり、丹下原を一の牧と二の牧、大戸原を三の牧とし、総面積百十三万六千六百余坪、これを総称して桜の牧と呼びました。周回二里半余、北側に桜川を取り込み、土塁を築き内堀を廻らして、馬と牛(天保十年、二の牧に放たれた。牛乳や牛酪を製した)を放牧しました。良い馬を得るために、秋田・仙台・南部から種馬をもらったりもしました。馬には桜の花を象った焼印を押しました。現在の県立桜ノ牧高校の校章はこの印を模したものです。
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 これと同時に里子駒といって、雌馬を農家に貸し出して、三匹産ませたあとは払い下げるといった制度も考えましたが、里子駒の制度はうまくいかず天保十四年に廃止され、里子に出された雌馬は希望者に年賦で売却されました。これらの施策によって桜の牧とあわせて産馬は増大し、民間にも普及していき、牧は、政変の連続にもかかわらず廃藩置県まで存続しましたが、今では、「一の牧」と「丹下二の牧」などの地名を残すのみで、その面影は失われました。
 
 
 
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