史跡(神社、仏閣、遺跡、墓所)

司命丸高倉父子顕彰碑

【場所】河和田町

 河和田団地の西のはずれに、高倉長八郎次(ひろつぐ)、同信太郎邦(くにひろ)父子の顕彰碑が建っており、肥後和男博士の撰文、当時の総理大臣佐藤栄作氏揮毫(きごう)の「愛国」の題辞が書かれています。また、塙瑞比古(はなわみずひこ)氏の撰文になる頌詞(しょうし)の碑も隣に建っています。
 次は司命丸の創製者高倉伴介景(ひろかげ)の子で、文政四年生まれ、家は代々の製薬業。のちに郷士にとりたてられましたが、それよりも、桜田門外の変の影の功労者、勤王の志士として名高い人です。金子孫次郎と親しく、高橋多一郎・斉藤監物(けんもつ)・蓮田市五郎・鯉淵要人(かなめ)などと交わりが深く、金品・物資を惜しげもなく提供しました。井伊大老暗殺計画は高倉家で練られたと伝えられています。また、次いで藤田小四郎たちが筑波山に兵を挙げると、これにも、多大な金品の提供を惜しみませんでした。そのために諸生党(しょせいとう)の刺客の狙うところとなり、三年の間香川敬三(かがわけいぞう) と共に京都に潜伏したこともありました。photo維新後は郷里に帰り、現在の護国神社の基となった鎮霊社(ちんれいしゃ)(常磐神社内東湖神社のところ)の建設に奔走、勤王殉難志士の慰霊顕彰に努め、明治11年58歳で没しました。平成2年、回天神社に合祀されました。
 子の邦煕は、河和田村長や県会議員・郵便局長などを勤め、地元の発展に貢献しました。