次は司命丸の創製者高倉伴介景(ひろかげ)の子で、文政四年生まれ、家は代々の製薬業。のちに郷士にとりたてられましたが、それよりも、桜田門外の変の影の功労者、勤王の志士として名高い人です。金子孫次郎と親しく、高橋多一郎・斉藤監物(けんもつ)・蓮田市五郎・鯉淵要人(かなめ)などと交わりが深く、金品・物資を惜しげもなく提供しました。井伊大老暗殺計画は高倉家で練られたと伝えられています。また、次いで藤田小四郎たちが筑波山に兵を挙げると、これにも、多大な金品の提供を惜しみませんでした。そのために諸生党(しょせいとう)の刺客の狙うところとなり、三年の間香川敬三(かがわけいぞう) と共に京都に潜伏したこともありました。
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子の邦煕は、河和田村長や県会議員・郵便局長などを勤め、地元の発展に貢献しました。