穂洲の本名は忠順(ただより)、明治19年(1886)12月1日この地で生まれました。同35年水戸中学に入学、同40年早稲田大学に入学、安部磯雄野球部長との出会いにより、彼の野球人生が始まります。
大正9年、早稲田大学の野球部監督に就任し、同大学野球部の黄金時代の基礎を築きます。同14年、米国に遠征して、かつての大学時代に大敗した(三戦三敗)シカゴ大学との雪辱戦に臨み、4回まで4―0でリードを許しますが、5回に5点を入れて逆転、10―4で大勝し雪辱を果たしました。長年の宿願を果たした穂洲は早稲田大学の野球部監督を辞任し、翌年、朝日新聞社に入社します。

『ベースボール攻撃編』『ベースボール守備編』等著書も多く、多くの人に慕われ、戸塚野球場・水戸一高校庭・大串貝塚ふれあい公園に胸像があります。昭和40年1月、78歳で逝去。墓は山側の東光寺にあります。