史跡(神社、仏閣、遺跡、墓所)

加倉井砂山の墓・日新塾

【場所】成沢町

 楮川(こうぞがわ)ダム浄水場から成沢町へ向かって北へ1kmほど行った道沿いに「贈正五位加倉井砂山先生墓入口」の石柱が立っています。さらに入ると「妙蓮寺」の石碑があり、その一段高いところが墓所です。砂山の邸と日新塾は少し離れた道路の反対側にありましたがきれいに取り壊されています(現在水戸市で発掘調査中)。
 加倉井砂山は、江戸時代後期の儒学者であり、私塾・日新塾を経営して多くの優れた人物を生み出しました。彼は文化2年(1805)に旧成沢村に加倉井久泰《ひさやす》の次男として生まれました。諱(いみな)は信、後に雍(やすし)と改め、字(あざな)を立卿(りっけい)といい、淡路と称し、号を砂山といいます。兄の後を継いで水戸藩から五十石を賜って郷士、また庄屋となり、横目(よこめ)(監察)を兼ねました。斉昭公(なりあきこう)(烈公(れつこう))は、天保十一年の領内検地を成沢村から始めますが、その折砂山と娘は和歌をさしあげ、斉昭公もこれを賞して詩を与えました。同十三年十月、斉昭公から偕楽園内の好文亭の宴に招かれたときには、一同の作詞のなかで砂山の詩が特に優秀であると称えられ学者としての評価が高まりました。
 日新塾に学んだ人びとには、郷士、神官、医者、村役人など郷村の指導的立場の人々が多く、遠く下野(栃木県)、会津などからも集まりました。photo文武両道の教育方針のもと、個性を重んじ、漢学、歴史学、理学、そして剣術、砲術、乗馬、練兵など実践的な教育を心がけました。砂山は一党一派に偏ることを好まず、門人からは斉藤監物(けんもつ)(静神社の神宮、桜田門外の変に関与)、藤田小四郎(東湖の四男、筑波挙兵の指揮者)など多才な人物が出ています。
 日新塾の蔵書の一部は県立歴史館に寄贈されています。


※人名の読み方で不確実なものは、ふりがなを《》でくくりました。